忘れられない6月8日になる -誕生日と秋葉原とナツノクモ-
今日は22歳の誕生日でした。今日からは大手を振って(21)と書けなくなるな、という感慨はどうでもよく、朝からのヒーロータイムを世の子供たち以上に満喫して、昨日買ってきた漫画を読んで、昼寝をして、起きたところまでは文句のつけようのない日曜日でもあったと思います。
寝てた間のtwitterのタイムラインを確認してたら、秋葉原、NHK、という単語が飛び交っていたので、とりあえずmixiでニュースを確認したところ、件の通り魔事件を知るところとなりました。まだ死者が2名と報道されていた段階でした。
そこからは最低な気分の日曜日かつ誕生日のはじまりはじまり。夕方から友人がパーリー(partyもとい飲み会)を開いてくれてようやく落ち着いてきたところです。
それでもきちんと気持ちを整理するために、なぜこの事件がそんなにショックだったのかを考えてみたいと思います。
1.自分の誕生日に人が殺されたと大々的に知らされたこと
以前に、誕生日はなぜ祝うべきなのか、ということを考えていたことがあります。「ソフィーの世界」の影響で哲学にはまって、「何も考えずに祝ってるけど、それで本当に良いのかよ!」と常識を疑ってみたくなった年頃だったと思います。結局は、「自分と今まで自分に関わってきた人たちの両方が1年の成長を喜ぶため」だとか、そんな普通の答えにたどり着いた気がします。
そんな日に、多くの人が殺された、自分より若い人も殺された、無差別的に殺されたと繰り返し伝えられるのはやっぱり悲しくなります。桜庭一樹著「砂糖菓子の弾丸は撃ち抜けない」の中に
生き残った子だけが、大人になれる
という表現が出てくるのですが、それを思い出さずにはいられませんでした。特に自分より若い人が亡くなったということにかけて。亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。僕は、生き残った僕は、無事に22歳を迎えたことを様々なことに感謝したいと思います。
2.場所が秋葉原だったということ
田舎者ながら東京の街だと新宿と秋葉原が好きです。就職活動中は東京に行くたびに訪れて、すっかり詳しくなった街でもあります。特に後期は新橋まで通うことが多かったので、新幹線発着の東京駅と新橋からは比較的近い秋葉原に高い頻度で通ってました。
お気に入りのお店も増えて第3の故郷とあがめるようになりましたが、最近では歩行者天国での過激なパフォーマンスが取りざたされ、警官やボランティアの方による中央通のパトロールが増えるなど情勢は良くなかったようです。ここにきてこの事件なので世間の反応は火を見るより明らかというかなんというか。オタク批判にからめてテレビのコメンテータがどんな言葉を発するかまで安易に予想がつくのもDriveMeCrazyといったところですね・・・・・・。
さらに思うのが、なぜ秋葉原を襲おうと思ったのかということですが、これについてはklovさんのエントリが興味深いところです。
なぜ「秋葉原」なのか―スペクタクル化という逆流 - No Hedge!
従来は種々のオタクと呼ばれる人々がコミュニケーションを志向して集う空間であったのが、近年のメディアの露出を通して秋葉原という都市に共通の記号を見出し、スペクタクル志向空間になっている。
確かに、電車男なんかも含めてマスコミによるオタク文化の広報によって「オタク」というものが徐々に一般化されてその総本山とも言える「秋葉原」は記号化が進んだのかもしれません。それによって「襲うべき街」としてみなされたと言えるのかもしれませんね。思考の内容はともかくとして、回路としては理解できます。はぁ。
3.その他の要因
これはまあ、色々と考えられます。
16時ぐらいに見たところNHKが番組の間を縫ってニュースを流していたのは対応としていいのですが、その元の番組というのがエコライブと称して都内各地でミュージシャンがライブを行うというもの。ライブで盛り上がるミュージシャンと観客、切り替わって秋葉原に関する報道、ライブで盛り上がる・・・・・・のループでテンションの差が激しくておかしくなりそうでした。そうは言いつつもPerfumeを見て喜んでる自分を発見したりしてドツボって感じでしたね。他にも北島がスピード社の水着で新記録か・・・・・・などと気持ちが揺れゆれのブレぶれで素直に事件を悲しめない自分と、そんなことを考えてる嫌な自分を発見しーの自己スパイラルによってすっかり意気消沈という具合。
加えて、読んでいた漫画が篠房六郎先生の「ナツノクモ」でして・・・・・・。この漫画の中では「動物園」と呼ばれる組織が、在籍者が起こした犯罪によってその存在を世間から叩き潰されようとするのですが、その構造が今回の秋葉原と世間とでぴったり当てはまるんじゃないかと考えていました。漫画の中では誇りや正義や存在意義をかけて戦っていくことになりますが、今回の場合は何をかけ、何と戦うべきなのか。当事者は誰かということも含めて問われていくんじゃないかなと思いました。