マンダリンオレンジ in hatenablog

esujiがアニメ・漫画について書くブログ。はてなダイアリーから引っ越してきました

現代の「リアリティ」を見つめる

萌え4コマとは直接関係はないけど、なんとなく思っていることを書きます。
最初に『ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち』(著者: 速水健朗,2008年)から女子中高生と学校の図書室司書さんとのやり取りをご紹介。

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち

司書さん曰く、生徒達が本を借りるときに「先生、これは本当にあった話?」とよく聞かれるとのこと。本当にあった=リアルな話でなければ「ウソ」であって、それは彼女たちには価値が無いものと感じられるらしい。
手元に本がないので正確な表現ではないかもしれませんが、ケータイ小説はそういった読者が多いこともあってか、序文で本当にあった=リアルな話であることを強調する作品も多いとのこと。
ただし、ここで言う「リアル」とは、「本当にあった◯◯な話」というレベルで十分であり、そこまでの信憑性は求められないとのこと。



さて、この話を聞いて「リアリティの承認がそんなレベルでいいのか」と笑われた方もいるかもしれません。


だけど私には、現代インターネットにおいて同じことが起きているように感じられます、具体的に言ってしまえばTwitterでふと流れてきたRTなんかに。


現代日本で起こっているらしい変わった出来事が−その多くは真偽の確かめようもないまま−拡散されていく。そんな時代での「リアリティ」や「物語性」とは、と考えこんでしまいます。


念の為に書いておくと、そういった拡散がうざい! ということを言いたいわけではありません。・・・思ってはいますが、言ったところでどうにかなるものでもないので。


考えるのは、現代日本において、そのレベルのリアリティで多くの人が納得するというのであれば、コンビニで「本当にあった◯◯な話」系の漫画を買ってある程度勉強すれば、読者のリアリティの範疇でありながら特徴あるキャラを設定できるのかなということです。
結論も特にないですが、思っていることを書いてみたってことで今日はここまで。



と思いましたが、せっかくなので『ケータイ小説的。――“再ヤンキー化”時代の少女たち』の紹介をば。
簡単に言うと、これまで批評的に語られてきた「都市・オタク・少年」に対するものとして「郊外・ヤンキー・少女」について扱う希少な本です。特にタイトルにもあるケータイ小説に関しては、これ1冊読めばその文化を十分理解できるレベルで書かれていると感じました。


また、せっかくなのでこの本にあったトピックから無理やり『ゆゆ式』の話に繋げます。
ケータイ小説、もといその読者層にとっては、肉体的なコミュニケーション=セックスはイージーなコミュニケーションであるとされています。しかし、言葉を用いてのコミュニケーションは齟齬を生みやすく、ケータイ小説ではそのまま恋愛の障壁として描かれてしまうとのこと。

ゆゆ式』2巻では唯に加えて縁とゆずこがあいちんと仲良くなる過程が描かれていますが、ゆずこが送った謎メールによってあいちんが困惑しコミュニケーションとしては不全に陥ります。その前に描かれたコミュニケーションといえば・・・って待てよ、その時に肉体的コミュニケーション(ギュッ)が成立したのって縁とあいちんだからあまり関係ない・・・? いやでも縁とゆずこがあいちんと仲良く流れだからまとめても問題ないような・・・。それよりも唯・縁・ゆずこのコミュニケーションにおいて言語的コミュニケーションが主だっているから、この作品を読んだ時に高度なコミュニケーションである認識を強く持たせるってことを強調した方がいいのかしら。それと肉体的コミュニケーションっていうなら岡ちーとふみちゃんの間でよく交わされてるよなーとかそういえば岡ちーとあいちんが会話してる描写って唯からお金を借りたときくらいしかないよねwwwとかそういうのも盛り込んだ方が・・・。
と、そんな試行錯誤をしながらゆゆ式論壇の夜は更けていきます(無理やりなまとめ)。